2024年3月~5月 今の時期だからこそ、日本の霊性と再び繋がる フジザクラ

フジザクラ

サクラの原種であるフジザクラは、日本の固有種。
火山砂が多く水はけのよい場所に自生し、霊峰富士の周辺に多く見られるので、フジザクラと呼ばれています。


マウントフジフラワーエッセンスの仲間であるフジアザミと同じく、フォッサマグナ要素の植物です。

フォッサマグナは、地質学用語で「大きな溝」を意味します。
糸魚川~静岡構造線の南側半分を中心としたフォッサマグナ地区には、この地区特有の希少な植物が根付いています。

狭義のフジザクラは、フォッサマグナ地域のみに分布するとされています。


フジザクラは、霊峰富士が観えるマウントフジフラワーエッセンスの工場がある山梨の県花。
富士宮の市花でもあります。


フジザクラは、3~5月、若葉の前か同時に、白や淡い紅色の花を咲かせます。

直径1、5~2センチの花と同様、葉は小ぶり、枝は華奢、木全体も小さめです。
別名のマメザクラは、小さいサクラという意味。
オトメザクラは、花が下向きに咲く事から。


繊細で可憐なイメージですが、高い地に根付く事が出来る、他のサクラより寒さに強いサクラです。

厳しい環境の中で生き延びられるように、他のサクラ以上に種間雑種が多く、1本1本が異なるだけでなく、集団をなしている事も。


富士山の過酷な環境の中で咲くこの花は、「和と忍耐」を表現しているのだそう。

花言葉は、優れた美人。


~いずれにせよ、このフラワーエッセンスは、特に富士山のエネルギーと深い関わりを持っています。
自然界は、人間や世界の見方を、ただ在るだけで教えてくれる優れた教師です。
まだ寒い富士山に入った時、50センチ程の岩の上で小さな根を張った、小さなフジザクラの木に出会った事があります。
いびつで安定しない岩の上で、丈が伸びて倒れてしまわないように、小さな幹をくの字に曲げて、大地や重力とバランスを取りながら、清らかな花を咲かせていました。
このフジザクラのように、動けずもの言えぬ植物達は、周りの自然環境のあるがままを受け入れ、協調し、育っていきます。
日当たりの悪い場所に飛んだ種は、細くて頼りない茎をひょろひょろに伸ばして、一生懸命、太陽を探します。
険しい崖の斜面に根付いた木は、不安定な地の上でも安定して生きようと、自分自身を変形させながら、天へと向かいます。
大地から切り離された切花達だって、窓から差す太陽の光をたくさんもらおうと、茎の角度や花の向きを変えていきます。
茎がひょろひょろに曲がっている植物を見て、「間違っている」と思う人はいないでしょう。
私達人間も、環境に合わせて成長していきます。
過去のトラウマでこころを閉ざした状態も、両親の愛情で明るく前向きに育った状態も、それぞれの人が、その環境の中で「まっすぐに」生きてきた姿です。
それぞれの植物も、それぞれの人も、それぞれの石も、ふたつとないユニークな存在であり、神聖さの体現であり、尊重され、受容され、認められる存在なのです。~
― 書籍「マウントフジフラワーエッセンスとエネルギーの世界―花の”Being”―」より抜粋 ―


フジザクラのキーワードは、《内なる美と和》。

霊峰富士とサクラという、古より日本人に愛されてきたエネルギーを携えています。


日本と世界が大きく動いている今の時期だからこそ、個人レベルでも集合レベルでも、誰もに内在する霊性を刺激し、自然界や宇宙とチューニングを合わせていくサポートとして、フジザクラはいかがでしょうか。

マウントフジフラワーエッセンス全体の底にも流れる、日本の自然観、死生観と共に。


ところで、近所の偉いお坊さんからお聞きしたのですが、元々の日本には、いわゆる死、何かがなくなるといった考えに馴染みがなかったという説があるのだとか。


植物は枯れても、土の中の種は春に備え、時期がくればひとりでに芽吹きます。

死は生を助け、生は死を助ける表裏一体。
死は、生のための力の温存。
働きが異なる、ひとつのもの。

死と生は、コインの裏と表、手の平と甲のようなものなのですね。


死の中に宿る、大きな生命。

死に続ける事は、死なない事です。


全てが変化し続ける事、神羅万象、死と生のありのままには、強制も対立もなく、例外も切り捨てもなく、我も理屈もなく、自分と他者の分断もありません。


いわゆる問題は、何かに固執する事で作り出されるもの。

たとえそれが、いわゆる悟りや解脱といった、死と生を超越する事であったとしても。
現象世界をなきものとする脳内の概念も、ある種の固執かもしれません。


誤解を恐れず書くなら、現に在る事、現に起こっている事は、過不足なく、そのままで問題ない事。
問題があると思っている事も含め、問題ない事。


大きく変化し続ける世界の中で、ただそこに在る花達に感応する繊細な感受性は、和の国に根付くギフトのひとつでもあります。

それは、より大きな何かへの委ね、なのかもしれません。


遠くて近く、しかも近くて遠い事の両方が溶けあう二元を超えた次元を、言葉を超えた領域で、何となく感じ取る日本的な感性。

現に起こっている事や肉体感覚を持って生きる事自体への、慈悲や絶対肯定。
経験や認識のない、経験や認識を通しての理解。

対象のない見守り。

それは、理屈や頭脳労働とは異なるところ、今この瞬間の足元にあるのかもしれません。


私達が、物質界に降りて宿った肉体と肉体感覚は、理屈や頭脳労働、形あるものやないものを超えた、ただ在る事への扉です。

そして、ただ在る事は、肉体や肉体感覚のように、何かの元になるものから創造したり、なくしたり出来ない、原因と結果の引力圏外のものです。


ただ、生きるために生き、死ぬために生き、生きるために死ぬ、花達の根底にある智恵は、全ての存在の智恵でもあります。

そんな感性を、今一度、ほどいてみたいなら、フジザクラからの呼びかけを感じているのかもしれません。

単体でも普段のミックスボトルに加えても、フジザクラのエネルギーに、丁寧に浸ってみませんか。


大地震で子供を亡くした知人に送った、禅僧の良寛さんの言葉。
「災難に遭う時節には災難に遭うがよく候 死ぬ時節には死ぬがよく候 是はこれ災難をのがるる妙法にて候」

カウンセリングの基本からみるなら、相手の方の状態や信頼関係によっては、決して言ってはならない、目の前で起こっている事への無慈悲な言葉となります。


同時に、人によっては、死から生へのしなやかな力ともなる、異なる次元でのありのままの言葉でもあるかもしれません。


近所のお坊さんによると、日本人は、死を「しなる」と捉えるとの事。
し「なる」は継続であり、「しなる」は、しなる竹が折れる事なく、その力で元に戻る姿でもあり。


フジザクラは、他者を援助する職業の方、とりわけ死と生に関わる人達にも役立ちます。
今、死や生を身近で感じている人達にも。
瞑想者、探究者の友としてもいいでしょう。

二元性を超えた死と生の一体の領域から、全体を見守る事をサポートしてくれます。


「沈黙の内に音を聴き、色なきところに色を見て、一瞬の静止に動きを見い出し、空間の中に時を感じ、自然がもたらす偶然性を歓迎するような、繊細な感受性、瞑想性とつなげてくれる」(書籍より)フジザクラだからか、言葉で表現出来ない領域の微妙で抽象的な表現となってしまいましたが、よろしかったら使ってみて下さいね。

尊敬と嫉妬、嫌いだけど惹かれる、嬉しさと罪の意識、広がりと委縮等、複数のフラワーエッセンスが必要だと思われるような複雑なこころの動きにも、このフジザクラ1本だけで充分に働きかけられる事もあります。

パビットラ(中沢あつ子)

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